バナーエリア

このブログを検索

あめのいち 『カラフルなかべ』



「 夢の中はこの世界とつながっていて、
 漕ぎ出せばいつでも行き来して触れることができる 」


2014年から書き始めたという、
自身の夢日記をベースに構成された展示会。

上記で取り上げたコンセプト文章は、
端的かつ的確に、そしてドラマチックに、
本展示会を表現するものでありました。

白昼夢、三途の川。
まるで、夢の一端に触れるような体験。





実生活と距離を置いた、緊張感ある空間。
日常という名詞は不適当で、自由で、暴力的で、
倫理や重量の束縛も受けない。
私達が日常的に足を踏み込む、無法地帯、夢。

書き出された日記から夢を再構築するにあたり、
ホワイトキューブという空間は最適だと思う。

(ギャラリー/アート)という言葉や施設の力を用いて、
何にでも染まる白・白紙をベースに披露された本展示会。
私、それだけで評価したい。




一枚目にご紹介した写真に話を戻しますが、
棚に置かれた供花、イスにかけられた白布は、
オノ・ヨーコの作品「カバー」を想起させます。
※後ほど詳細をご説明致します

対象の輪郭をならし、起伏を抑え、曖昧にする。
その「布をかける」という行為は、
夢と現実の境界線上にもかけられていると思った。

部屋の片隅で佇むこけし、
ピンクのレースカーテン、
仏壇をおもわせるレイアウトにお供えされた来場者様からのお菓子。

随所にこつ然と姿を現した事物・現象の数々は、
展示会を夢と現実の二ヶ所から支える要素である。

そろそろ絵画作品のご紹介を致しましょう。


「2014年7月22日(火) カラフルなかべ」


2014年度から現在にかけて、継続してお描きになっている「夢日記」シリーズ。
主な画材はアクリル絵具、あまり絵具を混色はしないとのこと。

起床したらすぐに書き留めないと瞬く間に透明になってしまう、
霧みたいな存在である夢を作品・形として定着させるには、
乾きの早さ、発色等の面からもアクリルは必然だったかもしれない。




スペースの大半を占めるのは、
F0号サイズの小作品の数々、壁。

日記が記述された日付と1ワードがキャプションに添えられています。
作品の並びは時系列がごちゃ混ぜになっていて、
そのあたりもテーマに関連したレイアウトであると思いました。

あのめのいちさんの作品・展示に関して語ることるは、
夢を想うことであるなと思考しつつ、文章を進めたいと想います。


「2014年8月21日(木) 洋風の自宅が焼ける」


夢日記を続けると、夢と現実の区別がつきにくくなる。
私が見聞きした上記の事柄を、あめのいちさんもご存知でした。
作品として形に残すことは、記録であり、事実、夢というベースがあるから、
あるかないかで分けるならば、あったこと、に分類されると考えます。

だから「2014年8月21日(木)」に「洋風の自宅が焼ける」ような出来事があったのです。
しかし、重要だと思うのは、作家が捉えた情景と、
タイトルとには大きな違いがある可能性が捨てきれないということ。




これは単に笑っている表情だと思ったら、本人にとっては怒っている表情だったとか、
シンプルに表すならばそういうことで。
本作品のタイトルを鵜呑みにするのは、大変危険であると思う。
あくまで参考にし、最終的には鑑賞者自身が現象を判断すべきであり、
この判断が、夢の特性を理解する上で大変重要であると考えます。

私には、紫色の家の形をした人間に、
火の手が上がり、必死に消火活動をするも、
火の勢いは未だ衰えず、絶賛炎上中...と見える。


「2014年6月21日(土) 高い塔」


名詞は、あくまで、その名詞を知る者同士にしか通じない共通言語であって、
本質ではないし、全ての事柄・本質を指し示すことはできない。
従って、用いられる言葉は自然と自身が記憶する限られた範囲に限定される。

不自由だけど、そこそこ便利で、
自らの生活範囲に置いてはあまり支障はない。
あめのいちさんはそんな言葉を添えることで、
無法地帯に取っ付きやすいイメージを付加させる。
鑑賞者を惹き付ける、観光地化を目指すイメージアップ大作戦のようだ。


「2015年5月17日(日) 無人島泉町」


あめのいちさんの作品を鑑賞し、
そんな不自由さもひっくるめて、
やはり夢は面白い存在だと思う。

映画みたいだなぁ、という感想を抱いたこの一作。
※参考例の作品名は「キャスト・アウェイ」

映画と表現しましたが、映画(スクリーン)の中を、
登場人物達は縦横無尽に生きているわけで。
そのドラマを、F0号というわずかなキャンバス地の中から感じとれたのだ。


「2015年5月29日(月) 祖母宅の広い風呂場で」


と、ここまで「言葉」に関して突いて参りましたが、
そんな言葉が大好きです、私。
言葉の至らない点は、カバーする必要があっても、愛おしい。
だから、その言葉選びも充分に堪能しましたよ。

さて、本作の感想に移りましょう。
臓器の表皮を貼付けたみたいな不安な地面の中、
突如表れた行き先不明の穴に似た暗がり。
白い塊が祖母の姿なのか。
一時期はまった、ゲーム「サイレントヒル」を思い出す。
不穏だけど、それは、わたしのことなんです。


「2016年2月21日(日) いけしゃあしゃあといちゃつくの?」


このあたりで、あめのいちさんが主に好まれている色が見えてくる。
「洋風の自宅が焼ける」や次にご紹介する作品でも用いられる、作家なりの色。

ぱっと浮かぶのは、亜空間に飛び散る血潮。
地面(と呼んでいいのか)から突き出る三本の白い突起物は、
遠慮なく申し上げるならば、血液の通った男性器。
いちゃつく、という言葉がその選択をしたのだと思う。
※作家が遠慮(セーブ)することなく、描いたと信じたので、正直に記述致しました。


「2014年8月29日(金) ショッピングモールの穴」


突起物、穴、炎、ヒトガタ。
今度は、作品内に頻繁に登場するモチーフに傾向が見えてくる。
言葉同様、自由と思い続けていた最中に見つけた不自由さである。
または私(鑑賞者サイド)の至らなさ。

作品右側には二本の足を持つ生命体が、
三連に積み重ねっているように見えて、
またそれはショッピングモールの階層の比喩なのかもしれない。


「2014年8月25日(月) 赤ちゃんがいない」


さて、夢日記をベースに描かれた絵画作品の数々は、
以下のプロセスを経て具現化されているという。
【起床→メモ→清書(テキストデータ化)→描画】

つまり彼女の夢が作品になるまでには、
最低でも三度の変換作業を経ているということ。
重ねて申し上げますが、大変不自由であります。

それほどまでに、柔で純粋な存在。
夢を描くという行為には、これほどまでに、ジレンマがつきまとうものなのか。

自らの排出口の先に、キャンバスを置くことが叶うならば、
どんなに楽で、純度が高い夢を見れるだろうか。

どうしたって至ることはなく、思い込むことでしか、
近づいたという実感を得ることはできない。


※購入された作品はその場で購入者に引き渡される。
 その後は作家のホームページへの誘導QRコードが貼られる。

※一枚目の写真。日中は映像作品が上映されている。
複数のイメージはぶつかり、押し合い繰り返し流れる。



今回、初の個展を開催したあめのいちさん。
彼女は美大ではなく、とある大学の教育学部に通っており、
主に民俗学を学ばれているそうです。
今回は、容易に変容する我が儘なテーマを相手にされましたが、
次の機会には、それこそ学ばれた民俗学をベースにして、
より論理的に作品展開をする様も拝見したく思います。

と書いていますが、夢というテーマは、
あめのいちさんと相性が良いのではないかと、勝手に思っています。

なので、うまい誘導の仕方と致しまして、
是非、両方継続して頂きたいと思います。

今後の作家の動向は以下のURLにてご確認ください。




あめのいち 『カラフルなかべ』
会期:2016.3.23 - 2016.3.28
GALLERY SPACE : 1-C

(スタッフ:ぱんだ)