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『澄んだ ある日のこと』

設営を終えて、本日より一般公開。
ムラセマナブさん、aimiさんのお二人による展示。
『澄んだ ある日のこと』
展示風景、作品を交えて綴りたいと思います。

ムラセマナブさん。
透明度を意識させる写真が立ち並びます。
写真を彩るフレームは、木目調、ホワイト。

一歩下がった所から、ひっそりと作品達は主張をします。
光を通すフィルムに印字された文字/風景は、
釘によって壁との間に距離を与えられて。
照明の光を浴びて、白い壁面にぼんやりと像を映し出します。

「澄んだ ある日のこと、澄んだある日のこと」
言葉は二重、二周します。


さて、ムラセさんの言葉が指し示すもの、それは不過視の何か。
見えないものは見えないのか?

それは言葉遊びのよう。
言葉は物理現象、限界を飛び越えられるのですよね。
書いてしまえばいい。


「見えないものを見た」
そう書き残した人がいたとすれば、その人は本当に見えないものを
見たのかもしれない。
その場所には矛盾などという横やりは不毛なのです。

エーテル、クオリア、恐らく彼はこの言葉達を愛していることでしょう。


感覚を信じ通した果てに見えてくる景観。
何も身にまとっていない無垢な姿。
それこそが、ムラセさんの作品の実像なのかもしれません。

ペンギン少女こと、aimiさん。
天井から吊るされた紙の上をすいすいと泳ぐ。
いや、泳ぐというよりも佇む、という言葉が近いかもしれません。

aimiさんの描くペンギンは、いつも放浪しているように見えるのです。
明確な目的を持たずに行動している、そんな気がするのです。

彼らにも目的があるのだとは思うのです。
でも、その目的は彼らにとってさほど重要なものではなくて。

ただ、そこにいるという事実を残すこと。
それがaimiさんの描く、という行為の後ろについているんじゃないかって。

どこにいるのだろう、そこにいるのです。
澄んだ場所、人の手が届かない場所。

言葉を増やせば増やすほど、
着地点がずれてしまう気がしてしまう。

ムラセさん、aimiさんが作り出した今回の展示は、
言葉にしにくいものが魅力として存在します。

是非、直接ご体感ください。
時間をかけて、鑑賞してみてください。

今日、僕も寝ながらお二人の作品を思い出してみようと思います。


ぱんだ