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SEKORABA 『SEKORABA展4』

SEKORABAさんによる" 言葉とドローイング " Vol.4 が始まりました。
Vol.3が開催されたのは 2011/08/04 のこと。
 あれから一年が経過致しました。

実は Vol.3 の記事も私が書かせて頂いたのです。
併せてお読み頂ければSEKORABAさんの凝縮された一年間の変貌を
伺うことができるやもしれません。
Vol.3 の記事はこちら
まず作品全体のディティールを拝見し、気付く。
描き込み量の減少と共に出現した身のある余白の存在。
描かぬことで作り出された、張りのある白肌。

書き込み量が減少したといっても、柔な物量に成り下がったわけではありません。
生い茂っていた直線/曲線の森が伐採され、
見晴らしの良い丘になっただけのこと。

刃先であり、刃渡りでもある線の特徴が際立つ。

" 言葉とドローイング " というテーマの通り、
展示物は大きく二つに分けられています。

続いては 人対人 における重要なコミュニケーションである言語。
同じ言葉を紡ごうとも、決して同じ道筋/意味を辿ることはない。
身近にあって繊細な存在。

今、私が綴っている言葉は「フォント」という存在を媒介し、
閲覧者である皆様に届いております。

習字の授業では、とめ、はね、教則に乗っ取って、
正しい形をなぞるよう教わってきた
教則通りに線を引こうとも、オリジナリティを追求しようとも、
大まかな形状が整っていれば、意味を受け取ることは可能です。

それでは SEKORABAさんの文字のあり方は?
のびのびと両手を広げる言葉。
それは、周囲からの抑圧に対峙する構えでありましょう。

特徴のある形状、それはこぎれいな服を身にまとうように。
ただただひたすら形を見とれてしまう。

文字の佇まいに見とれていた私に対し
意味は遅れてやってくる。意味が裸でやってくる。
形に意識を奪われた無防備な自分めがけて。

先走りする「形」、彼の背中をおいかける意味の追いかけっこ。

一面をご覧頂ければわかるように、装填済みの言葉の山が待機しています。
どれも鋭利な切っ先。

ジャン・ミッシェル・バスキアは、あるインタビューで記者に、
「僕のことを死んだ人間と思って記事を書けばいい」と語ったことがある。
僕も同じ気持ちだ。
僕の作品を、死人の作品と思って見て欲しい。

「死人の作品-売れること.売れないこと」 2012年 SEKORABA

スペースで配布していたレジュメの一文を抜粋致しました。
SEKORABAさんが綴ったこのレジュメに全て目を通してから、
作品という制作/生きた証に目を向けて欲しい。

誰のために、何のために、作品を制作し、
誰のために、何のために、展示を行うのか。

この現場を目の当たりにして、自らに問いかけたい。
一年間真摯に全身し続けたSEKORABAさん、ありがとうございます。

7月31日(火)まで公開中です。

(ぱんだ)