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片岡奈緒 『ひと』



片岡奈緒 『ひと』 
会期:2016.8.8 - 2016.8.11

武蔵野美術大学造形学部油絵学科三年
片岡 奈緒さん 個展
WEST : ART POCKET にて開催中




「その人と出会って、その人の事を描きたいと思った。
その人の撮った写真をまねしたり、その人の目線になったつもりで描く。」
(キャプションより抜粋)

「その人」とは、恐らく特定の男性のことを
作家は指し示しているのだろう。

しかし「その人」に関するデータを持っていない鑑賞者は、
絵画からその人を想像する。
作家とは真逆のプロセスを辿ることになる。
つまり、目の前にいるのは概念的な意味での男性である。




美術手帖(2016年4月号)でも特集記事が組まれていました。
メンズヌード、しかし日常的に目にする機会は少ない。

そんな比較対象を十分に持ちえていない状態で接する、
メンズヌードは大変新鮮。

さて、本展示の見どころはなんといっても100号の油絵である。
(冒頭でご紹介した写真)

都会の喧騒とほどよく絞られた肉体。
存在感十分、太く、黒い眉毛。

言葉のイメージだけで申し上げるならば、
「男」ではなく「男性」という言葉が適切だと考える。




会場には同大学の野中早智さんから寄せられた寄稿文が添えられていた。

その文中にあった言葉「生々しい」という単語が、
片岡さんの作品を見るにあたり、キーとして機能しそうだなと思った。

ようはこの「生々しい」という単語から、
鑑賞者がどんな映像を思い浮かべるか?

生命体は死ぬと動かなくなる。
絵画も写真も静止した1カットで構成されたものだとしたら、
動かない、死んでいるように見える。

ネガティブな意図ではない、
素直に描かれているからこそ、死んでいる(ように)見える。




動画の中から無作為に抽出された1カットだけを見ると、
違和感がうまれたりする。
それはとある動作中、瞬間にしか見る事ができない像を、
引き延ばし、永遠にすることから生まれる違和感。
しかし確かにあった、過去の出来事。
極端な話、ここにあるのは、描かれた結果でしかない。

装飾を削がれた、衣類を脱ぎ捨てた男性。
純粋にひとを見ようとさせる、片岡さんの作品。

私たちは人の何を注視しているのか。
肉体か、表層か、想像上の内面か、性器か。
そこから私たちは何を見出すのか。


「ポジティブな出来事」というものは存在せず、
誰かがそれをポジティブだと見なした、だけ。
またその行為自体には善意も悪意も存在せず、
誰かがそれを善意や悪意と見なす、だけ。

という言葉を添えてやっと、
「死んでいる(ように)見える」と記述する勇気が持てた。
そんな対外を意識する自身の行為を、私は滑稽と見なしているが、
それさえも、ひとらしいのだ、と作品を前にして一人で納得した。

是非、ひとを、素直に、ご覧あれ。


片岡奈緒 『ひと』 
会期:2016.8.8 - 2016.8.11