そこにいること。
存在というものの偉大さを
これでもかと投げつけてくる。
森 葵さん 個展
WEST : ART POCKET にて開催中
何度もDFGに出展頂いている森葵さん。
今展示会では新作と共に、過去DFGに展示されていた作品も並んでいます。
意識せずとも、いつかの記憶の土を自ら掘り起こし、
俺だ、俺だよと脳を叩く。
「あ、あの時見た作品じゃないか、久しぶり。」
数年ぶりだったりもする。
今展示会で個人的に最も好きな一枚がこちら。
それは「見られている」ことに尽きる。
私がこの場面に出会ってしまったこと。
私がこの情景を目にしてしまったこと。
全てがもう過ぎてしまったことで、
悔やむべきことである。
ひと呼吸置いて作品を眺めていると、
森さんの作品の中に存在する「真面目」というか
「規律」というか、真っ当な部分にぶつかる。
内にある留めきれない何かを、うまく先導する能力。
作品として、絵画として、形にする力。
それを森さんはお持ちである。
猛獣使いというと可笑しいかもしれない。
時に、傍観者のような立ち位置で描かれた作品を見かけるから。
「わすれていいのよ。 あたらしい人生を おくりましょう。」 彼女はそういってくれた。 |
先に述べた、傍観者の位置からの作品。
そう思う理由の一つに、作品タイトル/言葉の存在がある。
彼が車椅子生活を送るに至った経緯も何も知らないけど、
看護士と彼との間にある空気は色々醸すし、語る。
でも、おもいだしてしまう |
伏し目がちな彼は自暴自棄にアルコールを流し込む。
これまた、そこに至るまでの過程を私達は知らない。
「でも」
その言葉が不透明で濃厚な過去の存在を示して、
私達の中にすっと染みて、私の「でも」を探そうとする。
僕はもう考えないことにした |
横たわる骸骨の表情を死に顔と呼んでいいのか迷うけど。
何かから解き放たれたような死に顔だと思う。
生きるための思考から解放されて、
骨はすーっと横倒しになっている。
考えず、何も感じない身体になれば、
それはもう呼吸していても死体みたいなものなのかもしれない。
だったら考えない方が良い。
そこまで辿り着いて、なお、横たわる骸骨を横目に
両指をすりあわせ、時間は過ぎ行く。
---
眺めるだけじゃなくて、
もう一歩、あと数秒。
森さんが描いた情景と自分を対面させると、
その自由で、壁のある世界を楽しめるはずだから。
11月17日(Sun)までの公開
(ぱんだ)