9月7日(Fri) - 9月9日(Sun) EAST : 302
ホットチックミン 初の展示会が終了致しました。
今回は普段より多くの写真をご用意致しました。
是非、ご覧ください。
木板の上に角材を立て、その先に大小様々な鏡を取り付けた装置。
その装置は入り口正面の壁に数十と配置されていました。
部屋の照明を全て落とし、真っ暗な部屋にて。
入り口脇に置かれたプロジェクターが光を持ち込んでくる。
設営時から部屋の様子を確認していたのですが、
正直、ここまで化けるとは思わなかった。
それ程までに"装置"自体の作りは簡素なのです。
しかしながら、出来上がって、投影されて、改めて見たとき。
その簡素な装置の佇まいに見蕩れた。
木板、ガムテープ、黒色の接着剤、断面の荒いガラス
確かな理論以外のセンスが構造を支えているのです。
- こどもがいたずらに組みたてた積み木の山のように -
どうして崩れないのか不思議で、それがたまらない。
その時、私は今の姿形に至るまでの過程を見ているのだと気付いた。
(スペース中央に貼られたネットに投影されている図)
鏡を取り付けた装置の手前にはネットが貼られていて、
見事に像が映っていて、それでも光は突き進んで、
奥にある装置を目がけて走る。
装置にぶちあたったら、次は鏡によって周囲の壁に誘導される。
部屋の広さはいつもと何ら変わりないというのに、
空間の中を行ったり来たり、奥行きが広がっていくよ。
投影される映像、夜景であったり、地面であったり物であったり。
鏡によって像は■●▲に切り取られ、壁に貼付けられる。
その身の一部が足らずとも、私たちは像が何であるかを認識できる。
後、壁に貼り付いた寒天のような像の欠片を見つめてみるが、
何が何のことやらわからない。
元の映像を見ても、判断が難しい。
これはあれのどこかに違いないのだけど。
元を辿れば、私たちが目にする全ての情報は光である。
普段から目にしている町並み、星の輝き、電車の窓からブレて見える景色。
それとプロジェクターという装置から放たれる光。
触れないのであれば、何ら変わりないもので。
それが現実であるか、非現実であるか。
それが物質であるか、非物質であるか。
また、私は光/映像の形を認識するまでに、
0コンマ数秒の時間を必要とする。
だから私たちが"見"ている現象は過去にあったこと。
現実も非現実も、結局は過去あったこと。
だとすれば、映像と映像でないものの境目など、
触れても気付かぬ切れ目に変わりない。
見るというよりも、体験する展示だなと思った。
そして、体験する展示というよりも、飲み込まれるための展示だなと思った。
この身に投影された像、今私たちはスクリーンとなった。
私の身体が映像を見るための装置の一部となった。
ならば、私は作品の中に身を投じているのだ。
作品の一部となり、作品を眺めているのだ。
作品を成立させる重要な一要素になって。
させられて
映像がそこにあれば、私たちは映像を直視しようとする。
しかし、ホットチックミンのお二人は、
その生まれ行く必然を霧散させて、霧の中に私たちを招き入れた。
光を見るのではなく、光にまみれることの提案。
人間が日々手に入れる情報は、視覚を介した情報が大半であります。
そして、集積した情報はやがて名前や意味を帯びる。
その当たり前で複雑なことを難なくこなしている私たちに向けて、
彼女達は視覚情報の解体/配列の組み替えを試みた。
映像自体は日常の連続の中にあったとしたら、目も止めぬ風景なんです。
いつもある、あたりまえの日常なんです。
それがどうしてこうも美しく映るのか
僕らはいつも何を見ていたんだろう。
与えられた情報を真正面からしか見ていなかったのではないか。
情報の側面/裏面/底面/周囲。
私たちが見過ごしていた面を露にしてくれた。
今後の活動への期待が高まる初展示、三日間でした。
(ぱんだ)


















