SEKORABAさんによる" ドローイング 回顧展 " が始まりました。
SEKORABAさんの作品展示と対面していると、
一スタッフとして、一来場者として、
この身体、精神をきゅっと絞り上げられる気持ちになる。
また、今回の回顧展に訪れる前に、過去DFGにて開催された
それでは。
2011年/2012年/ " 言葉とドローイング " というテーマで
作品を制作されていたSEKORABAさん。
今回は「言葉」が取り除かれて、
文字、言葉で綴られる作品は無かった。
だから、入り口に飾られたこの一枚をまずはご紹介したかった。
エントランスをくぐる。
本展は2006年頃から2013年5月までに制作/発表された
過去のドローイング作品の中から自選したものを展示。
個々の作品は制作時期によって、
異なる4つの壁面に分類されています。
A. 2006年〜2009年(最も古い作品)
B. 2012年〜2013年(新しい作品)
C,D. AとBの間の時期に制作された作品
A. 2006年〜2009年(最も古い作品) |
初期の作品、近年の作品と比べると、
画面を構成する線の太さ、細さの違いが
ダイナミズムな視覚情報として伝わってくる。
距離を置いて鑑賞しても、
大まかなアウトラインを掴み取ることが出来る。
骨太な骨子を持つ作品。
制作 2006年 |
例えるならば、一つ、細胞組織に似ている。
顕微鏡を覗き込んで、見えた事実、現象。
個別に切り離された物質のそれぞれが、
ある程度の指針を共有しつつも、
独自の自我を保持している。
一つの画面の中に無数の生物が共存。
視覚的にも構造的にも、
多数の生の存在を感じる。
C,D. AとBの間の時期に制作された作品 |
一歩引いて、作品と対面する。
この瞬間こそ、私がSEKORABAさんの作品に
身も心も締め付けられる瞬間。
初期段階から数年経て作品は
主線と副線の境界線を溶かし
よりフラットな存在へと形を変えた。
制作 2011年 |
その密度は既に線の強弱に頼ることが無かった。
主線が言葉通り、作品の軸となっていた初期と比較すると、
現在の主線(ここでは太い線の意)の役割は、
幾層にも重ねたレイヤーの最も外界にある薄皮一枚に近い。
強さとか弱さとかじゃなくて。
見えない線を見つけることが叶ったから、
この細い線の主張がここまで届くのだと思う。
B. 2012年〜2013年(新しい作品) |
次はどんな景色を見せてくれるのだろう。
この少し離れた場所から近年の作品と対面して
もう次の透明な一挙一動が待ち遠しい。
細胞という例えの先、
対象を構成する組織。
もっと優しく、丁寧な目で指で、
SEKORABAさんは作品を制作し続けていた。
制作 2013年2月 |
どこまでもどこまでも敷き詰められた線を、
吐息が触れそうな程近付いて見ていたら、
「この作品の上を歩いてみたい」と思った。
横600px 縦400px の狭さじゃ
この気持ちにはなれないかもしれない。
それはとても残念なこと。
近年の作品内、最も好きな描写方法。
それは細く伸ばされた、
まるで針金のような線。
釣り針にも似ていて、
その滑らかさを指先で味わっている内に、
すっと指の中を通り抜けてしまいそうだ。
そしてその描写、その動きは、
虫の様に、生命体のようでもある。
引いた眺め、近接時の眺め。
どちらにせよ多大な情報量の中に意識を投じることであるが、
その情報量の多さに悩んだことは一度も無かった。
何故だろう、
それはSEKORABAさんの作品にだけ起きる。
二つの線が描く弧は、皮膚の切れ目に。
落とされた黒いインクの溜まりは、血液に。
白い紙が皮膚に見えてきて、
引かれたインクは全て、入れ墨のように、
強く消えないように刻まれた軌跡になっている。
作品近接 |
縦横無尽に画面を行き来する線は、
全てを切り裂く為でもなく、
一部を引き離す為でもなく、
ただ一つの在る意識として。
SEKORABAさん自身
「 僕の絵は「連続」ではなく、「断続」だと思う 」
そう語っている。
今だけを見つめることを強く意識しつつも、
自身の歩んできた軌跡を振り返る、回顧展。
部屋に置かれたキャプション。
現在迄の積み重ねに対する一文を最後に引用します。
「 とても危うい、今にも崩れそうな土台ではあるが。」
2013年 SEKORABA
それは、これからも積み上げられて行くであろうものたち。
10月20日までの公開
(ぱんだ)